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La classe de neige ニコラ/冬の少年

フランス映画 (1998)

エマニュエル・カレールの同名原作『冬の少年』(1995)を映画化した作品。1998年のカンヌ映画祭で、デンマーク映画『セレブレーション』と審査員賞を分け合った。受賞はこれ1つだけでノミネートも2つだけ。正直言って、なぜ審査員がこの映画を気に入ったか、よく分からない。フェミナ賞を受賞した原作は、内気な少年ニコラの心の動きを、たんたんと、静かに、抑えた表現で、しかし、的確に描き、強烈な印象を与えてくれる。しかし、映画は、内気=無口で無表情、プラス、アシストするような「独白」もなければ、映像上の工夫もない。ニコラは、いわば放置状態で、ニコラの心の葛藤は観客には伝わってこない。そうした中で、ニコラの過去やニコラの夢・空想が予告なく錯綜するため、映画はますます理解困難となり、ニコラの心の闇も的確に伝わってこない。脚本に原作者が加わっていることが信じられない。ひとえに監督のクロード・ミレールの責任である。なお、日本公開時、及び、DVDの題名は『ニコラ』だが、公開後20年を経過し、原作題名との乖離も大きな問題だと思ったので、ここでは原作の邦題を副題として添えた。

12歳のニコラのクラスが、1週間のスキー教室に行くことになる。その少し前に小学生旅行のバス事故があったことから、ニコラの父親はバスで行かせることに反対し、200キロ先のロッジまで自分の車で送って行くことに固執する。そのために、ニコラが級友から疎外されようが、お構いなしだ。そかし、その点は母も同じで、ニコラには学校で給食を食べさせず、毎回家で昼食をとらせたため、ニコラは孤独で友達のいない内気な少年になってしまっている。父とニコラは無事ロッジに着く。しかし、父はうっかり、ニコラの着替えの入った肝心のバッグを車に入れたまま去ってしまう。ニコラには、その夜のパジャマすらない。それを貸してくれたのは、これまでほとんど口をきいたこともない、クラスのボス的存在のオドカン。ニコラはおねしょのことを心配しながら、オドカンの真上のベッドで寝る。その夜、ニコラは、オドカンと立場が逆転したような夢を見る。翌日、教師がニコラの母に電話するが、外回りの販売員の父には連絡がつかない。そこで、スキー教師のパトリックと相談し、最小限必要な衣類を村のスーパーで買い揃える。2日目の夜、ニコラは夢のせいで初めて夢精してしまい、恐怖におびえる。そして、山に来て初めて降り始めた雪に見とれてロッジの外に出る。オートロックで雪の中に閉め出されたニコラは、寒さのあまりパトリックの車に避難する。教師からは、その行為を、夢遊病の発作と勘違いされるが、見舞いに来たオドカンには、夢遊病ではなく臓器売買の悪者をスパイするためだったと嘘をつく (ニコラは、父から、臓器売買のグループが子供を拉致して臓器を盗んでいる話を聞かされていた)。翌日、スキー場で地元の少年ルネが行方不明になっていることを知ったニコラは、夜になって、オドカンに 「臓器売買の悪者に復讐する父」という嘘をでっち上げて話す。翌日になって、ルネが死体で発見され、それに関与したと見られる車が、ニコラの父の車と同じだと気付いたオドカンは、意外な行動に出る。ニコラの父が悪者に狙われていると思い、警察に通報したのだ。結果的に、ルネを拉致し、何らかのおぞましい方法で殺害したニコラの父は、逮捕される。ニコラは、そのことを知らされずに、自宅に帰されるが、何が起きているか察しはつき、絶望にさいなまれている。そして、オドカンは、自分の通報がもたらした結果に衝撃を受ける。

クレモン・ヴァン・デン・ベルグ(Clément van den Bergh)は1985年1月11日生まれ。“van den Bergh”はオランダ系の名前(フォン・デン・ベルフ)なので、先祖はベルギーのフラマン系かもしれない。撮影時は12歳か? 原作では9歳の設定だが、内容的には思春期の12歳の方がぴったりする。クレモンはTV映画で活躍した子役で、初出演は『Pas si grand que ça!』(1994)。No.3の重要な役で、腕白な子供を演じている(下の写真)。4つ目のTV映画が有名な『La ville dont le prince est un enfant(神父の蠱惑)』(1997)。いずれ紹介するが、ここでの役も、神学校にあるまじきコケテッシュな少年スプリエ(2つ下の写真・左側)。こうして見てくると、クレモンにとって、『ニコラ/冬の少年』は、映画初出演で、初主演、かつ、これまでの役柄とは全く違い、非常に内省的で孤独な少年への初挑戦となっている。しかも、原作小説では主人公ニコラの心象風景だけでなく、その背景もきっちり書かれていて理解を助けてくれるが、映画ではニコラの空想だけが映像化されているため、無表情のニコラと相まって、感情移入しにくい主人公になっている。クレモンにとっては、役不足というよりは、酷な脚本のお陰で「魅力の乏しい主人公」を演じさせられたことになる。これが彼にとって変声期前最後の映画となるだけに残念だ(2010年に俳優人生を終えるが、受賞暦はゼロ)。ニコラを 「何を考えているか分からない不気味な少年」として描くことで、監督はカンヌの審査員賞を得たが、原作通りにニコラの心理を描いていたら、クレモンも違う演技を見せてくれたかもしれない。
  
  


あらすじ

映画は、両側に山の迫る一直線の高速道路を 車がひた走るシーンから始まる。後部座席ではニコラが寝ている(1枚目の写真)。恐らく、朝早く家を出たからであろう。このオープニング・クレジットが終わると、映画は9日前の教室に戻る。そこでは、間近に迫ったクラスのスキー教室向けに、父兄のための説明会が開かれている。持参する衣類として、「分厚いセーター2枚、シャツ3枚、パジャマ2組、Tシャツ3枚、パンツ4枚、靴下4足」があげられる。女性教師は、①衣類にはすべてイニシャルをつける、②手紙を出せるよう 切手を貼った封筒を持たせる、③緊急時以外は電話をかけないと注意する。③まできた時、真っ先に反対したのがニコラの両親。父は、教師の方針に反対した上に、「ニコラに電話したくなったら、かけますよ」と言いきる〔実際には、一度も電話しない〕。そして、先週、アンヌマス(Annemasse、ジュネーヴ近くのフランスの町)で起きたバス事故で子供たちがⅢ度熱傷(最も重い火傷)を負ったことを取り上げ、事故を起こさない保証を求める。教師は非常識な要求に強く反論するが、父は、「私が自分でニコラを送るよ。確かな運転でね」と発言(2枚目の写真)。「ロッジまで200キロ以上あるんですよ」。「慣れてるから、平気だよ」〔彼は、車を使ったセールスマン〕説明会は原作の2章。映画との違いは2点。1つは200キロではなく400キロ。パリからアルプスまでだと本の方が正しい。もっと重要な点は、説明会の翌日、教師がニコラに、バスで行くか、父に送ってもらうか、本音はどちらがいいいかと尋ねるシーンがあること。ニコラはバスで行きたかったし、父のいいなりの姿を生徒に見せたくなかったが、父に逆らえないので「どっちでもいい」と答える。因みに、映画はすべてニコラの視点から第一人称で語られるが、2つだけ例外があり、それが冒頭の説明会と、ラストシーン。映画は、その後、再び高速道路のシーンに戻る。ニコラは、FINA(現在のTOTAL)のポイントが、途中で入ったGSで30に達し、欲しかった紙の人体標本がもらえる。原作では、途中にShellのGSがなかったのでもらえない(1章)。ニコラは、1つ達成できると、別のことが心配になる。「おねしょしたら どうしよう?」(3枚目の写真)。「しないさ」。「でも、しちゃったら?」。「パジャマを替えればいい。2組と言われたが、3枚入れておいた。着いたらすぐにバッグから防水シートを出すんだ」。「他の子に見られたら?」〔ニコラは原作では9歳なので夜尿症の可能性はあるが(フランスでは8歳で6~8%)、12歳だとより少なくなる(15歳でも1~2%はあるが…)〕ニコラのおねしょ恐怖症については、3章に書かれている。その時の一番の心配事は、何人もが一緒の部屋に寝るのに、どうやって気付かれずにシーツの下に防水シートを敷くか。
  
  
  

車は高速道路を離れ、山道に入る。しかし、スキー教室に来たというのに、周りの山を含めて雪はどこにもない。やがてロッジが見えてくる。かなり大型の施設だ。父の「灰色のルノー25 GTX」が建物の前に乗り付ける。ドアの横は教室になっていて、そこに生徒たちが集まっている〔生徒たちには、見ようと思えば、車が着いたのが見える→重要な点〕。まず、父が車を降り、次いで、渋々といった感じでニコラが外に出る。窓からは、スキーの教師が生徒たちに話しているのが見える。ドアから入った2人を女教師が迎える。教師は父に飲物を勧めるが、「もう暗くなるし、明日は早いから、すぐに山を降りた方がよさそうだ」と断る。父は、ニコラの両頬にサヨナラのキスをするが、ニコラが上の空なのを見て、「そんな態度があるか」と言い、今度は2回ずつ両頬にキスする〔ニコラに対する小児性愛の傾向を示す〕原作にはない)。ニコラの到着を関心をもって見ているのが、クラスの虐めっ子として有名なオドカン〔彼は、後で、ニコラの父の車種を言い当てるが、それは、この時、注意して見ていたからだろう/演じているのはクレモンより4歳も年上のLokman Nalcakan〕。教師は、ニコラに、「楽しみましょうね」と声をかける。すると、そこからニコラの半年前の思い出が始まる。過去の追想シーンは、写真の左端に山吹色の帯を付けることで区別する。場面は、遊園地のジェットコースターの乗り場前。ニコラは如何にも乗りたそうな顔をするが、父は、「14歳以下の子供は親の付き添いが必要」の掲示を指し、「あれが読めんのか?」。ニコラが同行を求めると、弟を1人で放っておけないと にべもない。近くにいた男性が、ニコラと父が乗っている間、弟を見ていてあげましょうと親切に申し出る(2枚目の写真)。しかし、父は、「いいえ、結構です」と断る。不満顔のニコラを、父は叱る(この部分は、原作の6章。内容はほぼ同じ)。ニコラと先生が見送る中、灰色のルノーは去って行く(3枚目の写真)。
  
  
  

ニコラのバッグがないことに気付いたのは、車の姿が消えてからだった。「車から出さなかったの?」。「父さんが、出したとばっかり」。教師は、ニコラのやる気のなさと、父親の無責任ぶりにあきれる。「お父さんの泊まるホテル知ってる?」。当然知らない。「パジャマを貸してくれそうな友達いる?」(1枚目の写真)。ニコラは返事に困る。そして、問い詰められて、「おねしょしちゃった時のために、バッグに防水シートが…」。「今夜はしないことね」。「頑張れば、一晩中起きてられる。怖い夢を見るより、その方がいいから」。ここで、先ほどの回想の続きが始まる。弟を回転木馬に乗せ、父はニコラに秘密を打ち明ける。「こんなこと聞かせたくはないんだが、お前も大きくなったからな。だけど、誰にも言うんじゃないぞ。友達にもだ。いいな?」。父が話したのは、子供の臓器売買〔le trafic d'organes〕の話。遊園地で、親が目を離した隙に子供が消えた。柵の裏で 気絶した状態で発見されたが、背中には包帯が巻かれ、片方の腎臓が摘出されていた、という話(2枚目の写真)。「奴らは、手術道具一式を供えた救急車を持ってるんだ。それを、遊園地やショッピング・モールや学校や映画館の前を走らせ、子供達を誘拐する」〔とても本当とは思えない。確かに、映画と同じ1998年5月に制定された刑法511-4条の臓器売買に関する罰則では、「懲役5年、及び、罰金7万5000ユーロ(約1000万円)」(2002年に修正)の刑が科せられるが、ターゲットは海外からの密輸入。フランス国内でこのような蛮行が行われたという情報をネット上で見つけることはできなかった。だから、これは父親の作り話であろう〕原作の6章の続き。内容もほぼ同じ)。ここで、2人はロッジの中に戻る。教師は、生徒たちにニコラが着いたと告げ、「ぼんやりして、バッグを忘れちゃったの。明日、お父さんが戻ってくるまでパジャマが要るんだけど、誰か貸してくれる人は?」と訊く。手を上げたのは、意外にもオドカンだった(3枚目の写真)。原作の3章では、この状況が詳しく書かれている。生徒たちは、オドカンがニコラをからかうために申し出たと思って笑うが、オドカンは、「ニコラにちょっかいを出す奴は俺が相手をするからな」(河出書房新社の翻訳本〔田中千春訳〕より、以後同じ)と言って笑いを遮る。オドカンについては、こうも書かれている… 「彼は崇められも恐れられもしていた」。ニコラは、新学期の初めから、オドカンをずっと恐れていた。幸い、今までは注意を惹かずにすんだが、情勢は一変した。ニコラはすごく心配になる。確かに、原作を読んでから、ニコラの表情を見れば、「原作通り」だと分かるが、映画だけでは、ニコラの表情は伺い知れない。
  
  
  

夕食の時間が近づき、ニコラはスプーンを置く係になる。並べ終えて初めて会う男性の教師に報告すると、それは、パトリックというスキー教師だった。彼は、ご褒美として「色とりどりの糸で編んだブラジルの手作りの腕環」をくれる。そして、手首に結んでくれ(1枚目の写真、矢印)、「縛りながら、願いごとをするんだ。糸が古くなって落ちたら、願いが叶う」と教えてくれる。願いは口にできないので、ニコラは何も言わない。横にいた子が、「人生、なんでもうまく行くようにって頼んだら、叶う?」と尋ねる。ここは、原作の4章。ニコラは、①おねしょしないように、②ここにいる間じゅう、すべてがうまく行くように、③一生すべてがうまくいくようにと考えた後、『三つの願い』(後出)のようになったら最後、とも考え直す。結局、何を願ったかは分からない。映画では、このシーンの直後、過去の異様なシーンに移行する。子供部屋では、ニコラが勉強し、弟が床で遊んでいる。そこに、意気消沈した父が入ってくる。父は、ニコラのベッドに腰を降ろすと、「勉強しろよ。これまでより、もっと頑張らないとな」と力なく言うと、次には、「もう、うんざりだ〔J'en ai marre〕。何もできん。疲れた」と呻いて頭を抱える(2枚目の写真)。そして、ニコラを「こっちに来い」と呼び寄せると、手で頬を包み、「愛してる。分かってるだろ〔Tu sais ça〕?」と言う(3枚目の写真、手首にリストカット=自殺未遂の跡)〔ニコラに対する小児性愛の傾向を示す2つ目のシーン〕原作では7章の最後にこの部分がある。①父が疲れたとつぶやき、②ニコラに勉強しろと言い、さらに、③「ニコラ、愛しているよ」と言う。
  
  
  

いよいよ夕食。パトリックが立ち上がり、「スキー教室〔la classe de neige:映画のタイトル〕に! 最初の日に!」と言って場を盛り上げる(原作では、ニコラが着いたのは2日目)。ニコラはオドカンの隣に座っているが、食べようとしない。それを見たオドカンは、「学食、嫌なのか?」と尋ねる。「そんなんじゃない」。「一度も見たことないぞ」。「登録してないから」。「親が嫌がってるのか?」。「父さんがね」(1枚目の写真)。「バスと同じだ。交ざって欲しくないんだ」。原作では、4章の冒頭にもっと分かりやすく書いてある。ニコラは、昼になると母が学校に迎えに来て、弟一緒に家で食事をとる。しかし、そのお陰で、ニコラは12~14時、給食+校庭で友達と遊ぶ時間の双方を奪われてしまう。だから、ニコラには友達がいない。生徒たちの大部屋寝室は二段ベッド。ニコラは空いていたオドカンの上のベッドで寝ることに。ニコラは、夜になって上下2人きりになった時、何が起きるか不安でたまらない(虐められる可能性)。ニコラが、目を開けてじっとしていると、オドカンが「おい、ニコラ」と声をかけてくる。ニコラはベッドから身を乗り出して下を見る(2枚目の写真)。「オヤジの仕事、何だ?」。「外回りの販売員。いつも、車で出かけてる」。「何の販売員?」。「人工装具(プラスチックの義手と義手)」。興味を持ったオドカンは、下のベッドで話そうと言い出す。そして、①装具を見たことがあるか、②装着したことがあるかと訊く(3枚目の写真)。ニコラが、自分には手や足があるから装着できないと答えると、オドカンは、「俺が、お前のオヤジだったら、実演用にお前の手足をちょんぎるんだけどな」と怖いことを言う。そして、父に頼んで装具を見せてくれと迫る。ベッドでの会話は、原作の5章を忠実に反映している。オドカンの怖い言葉は、将来を暗示しているようにも聞こえる。
  
  
  

ニコラは、おねしょをしないよう頑張って起きている。そして、先ほどのオドカンの頼みを考えているうちに、いつしか夢の世界に入って行く。夢もしくは空想での出来事を示すシーンは、写真の左端に空色の帯を付けることで区別する。夢の中で… 父がルノーで戻ってくる。そして、ハッチバックを開け、渡し忘れたニコラのバッグをロッジの中に運んで行く。すると、オドカンが現れ、ハッチバックを大きく開けて中を覗く。そこに、父が戻って来てオドカンに気付き、こらしめてやろうと静かに近づく。ところが、オドカンに手を伸ばした時、銃声がして、父が倒れる(1枚目の写真、矢印はオドカン)。驚いたオドカンが森を見ると、機関銃を持ち覆面を被った男たちがロッジに向かって歩いてくる(2枚目の写真)。男たちはロッジに入ると機関銃を乱射する。ニコラは捕まったオドカンを助け、小部屋に隠れる。「親爺は奴らに殺された。俺も狙われている」と不安がるオドカンに対し、ニコラは、「僕の父さんも殺された。僕たち、同じだ」と慰める。男たちは、生徒たち全員を殺すと去って行った。オドカンはニコラに抱かれるように眠る(3枚目の写真)。ここは、原作では8章にあたる。内容は幾つかに分かれる。最初の部分は、オドカンがハッチバックを開けて義足に夢中になっているところに、父が戻って来る。しかし、父の手がオドカンをつかんだ後は、「それからどうなるだろう? それは分からなかった」としか書いてない。そして、オドカンがなぜ父に興味を抱くかについての疑問から、オドカン自身へのニコラの興味へと移る。オドカンの暖かい体を近くに感じながらひそひそ話をするという発想は、ニコラに錯誤的な性意識がある可能性を示している。「ニコラは彼の髪を撫でながら慰めの言葉をささやく」。この表現も同じ。ここで、オドカンは、殺人者たちがロッジにやって来て、自分を殺し、雪山に捨てると話す。証人を残さないよう生徒たち全員を殺すとも。そして悲惨なシーンが記述される。映画でははっきり分からなかったが、このニコラの夢は、「恐怖を抱いてニコラにすがるオドカン」(オドカンに虐められるニコラの逆)をイメージしたものだった(映画では、ニコラの父が撃たれるシーンが挿入されたため、非常に分かりにくくなった)。
  
  
  

翌朝、女教師がニコラの母に電話をかける。TVでは料理番組をやっている(1枚目の写真、矢印はTV)。教師は、バッグがないと非常に困ると言い、連絡先を訊くが、不明という返事。資料によれば、1998年の時点でフランスにおける携帯電話の普及率は20%弱。それほど多くはないが、逆に言えば、1%ではなく20%もあるのだから、常に移動しているセールスマンなら持っていてしかるべきだ〔原作は1995年の刊行なのでそれに倣ったのだろうか?〕。母と教師のやり取りを聞いているうち、ニコラの空想が始まる。TVには料理番組ではニュースが放送されていて、そこでは父のルノーが崖から転落し(2枚目の写真)、「救急隊が到着しましたが、最期の言葉を聞けただけでした」とアナウンサーが述べている(3枚目の写真)。このシーン、ニコラが無表情なので、どうして父の転落死を空想するのかが分からない。これについては、原作の9章に、電話が終わった後、ニコラはこう心配する… ①父は昨夜、ホテルに泊まった時、もしくは、顧客に会って人工装具を出す時、必ずバッグに気付いたはず。②それなにの、なぜ電話しない? 「なぜ」の可能性の中に、自動車事故があった。「こんなに大事なときにやって来ないのは、来られる状態にないからだ」。そして、事故の様子が思い浮かぶ。父の最後の言葉は、「ニコラにバッグを届けて」だった。ニコラは、父のことが心配で空想しているのだが、映画では、それが伝わってこない。
  
  
  

教師は、電話をニコラに渡し、母と話をさせる。そして、自分は部屋を出て行く。母との単調な話が済んだ後、ニコラは再び空想の世界に浸る。先生が両手で顔を挟み、「恐ろしい事故の知らせを今 聞いたわ。勇気を持つのよ」と言い(1枚目の写真)、抱きしめる。TVには、ルノーをクレーンで吊り上げる作業が映っている(2枚目の写真)。先生は、ニコラの頬を優しく撫ぜ、「泣かないで」と慰め、「お父さんを亡くすなんて」と言いながら、何度も顔にキスをする。ニコラは、その様子をオドカンが見ていると空想し、見せつけるように、積極的に自分からキスをする(3枚目の写真)。原作では、先ほどの9章の最後の部分にこう書かれている。「父なし子の役、悲劇の主人公も悪くないなあと思った」。事故のことを知った先生は当然、慰めてくれる。「彼女はやさしく両の手に少年の顔を取り、手の平で頬を包む」「それはすばらしく甘美だった。信じられないほど甘美だった。この状態が一生続くといい。ほかには何もいらない」。この描写が映像化されたと思えば、非常に納得のいくシーンだ。
  
  
  

父親と連絡する手段がないと分かった教師は、パトリックと相談し、ニコラに、「午後、パトリック先生と着替えを買いに行ってらっしゃい」と伝える。原作の10章では、パトリックが、共同組合のお金で最小限必要なものを買うことを勧める。パトリックはニコラを愛車ドゥニーズ〔英語流に言えばデニス〕に連れて行く。車は、ロッジから離れた場所(池の近く)に停めてあるシトロエン2CV(原作ではルノー4L)。ニコラは、いつも通リ後部座席に乗ろうとするが、パトリックは、「それじゃ僕が運転手みたいだ」と言って(1枚目の写真、矢印は運転席の後ろに乗ろうとするニコラ)、助手席に座らせる。村のスーパーに着いたパトリックは、スキー帽から靴下に至るまでひと通り選ぶ(2枚目の写真)。パトリックの陽気な性格が、映画に明るさを与えてくれる。レジ係りの女性は、ニコラを見ながら、「こんなに買ってもらって」と言い、パトリックに、「この可愛い坊や、あなたの息子さん?」と訊く。「いや、だけど、1年以内にどこからも文句が出なかったら、もらっときたいな」。原作でも、よく似た会話がある。違いは、パトリックが「なかなかウマが合うんだ、ぼくたち二人」と付け加え、ニコラはそれがとても気に入ったという記述がプラスαされている点。逆に、原作では、店を出るとすぐに帰路につくが、映画では、15章の人魚姫の話が喫茶コーナーで話される。パトリックに何が好きかと訊かれたニコラは、TVを観ること、ゲームボーイ、読書と答えるが、その中で、さらに「何を読む?」と訊かれ、「物語」と答える。その後、ニコラは、自分が好きな「人魚姫」について話す(3枚目の写真)。ニコラが強調したのは、①おへそから下が鱗という姿、②薬を飲むとそれが足に変わる時の感じ、③永久に声を失うことの悲しさ、の3点。なぜ前倒しにして、ここに入れたのか? はっきり言ってよく分からない。このシーンは浮いた感じがする。それに、①~③はどこにも辿り着かない、ただの「物語」で終わってしまう(後述)。
  
  
  

ロッジでは、大広間を全員で片付けた後、一人一人に薄い布が渡され、その上に仰向けに横にならされる。そして、パトリックが、リラックスして、目を閉じ、何も考えないようにして、ゆっくりと呼吸するよう、静かに促す(1枚目の写真)。ニコラはそれに同調できず、どうしても目が開いてしまう。パトリックは「ゆっくりと… 深く…」と、何度もくり返す。ニコラは、肺活量計を思い切り吸って吐くところを連想する。「海のように… 大海原のように… 浜辺に寄せて返す波のように…」「息をすると… 空気は水のようだ…」(2枚目の写真)「それが体に満たされていく…」。ニコラはプールの前に立っている。「胸の中に… お腹の中に…」。突然現れた父がニコラの体をプールに突き落とす(3枚目の写真)。この幻想は3回違う形で現れる。ロッジでの集団催眠は原作の12章にある。しかし、そこに書かれているのは、「冗談で弟に猟銃を向けて引き金を引いたら、実弾が入っていて弟が死んだ」という、父から聞いた話。ニコラは、その子の一生はどうなるんだろうと考える。この「寓話」は、状況は違うが、ニコラの将来を暗示している。しかし、「父にプールに突き落とされる」場面は原作のどこにもない。父とニコラの関係を誤解させるようなシーンをなぜ入れたのだろう? このシーンがあるために、前に出てきた「父が事故死する連想」は、ニコラが父を嫌っているためだと誤解しかねない。プールのシーンの追加は失敗だと思う。
  
  
  

夕方、生徒たちが上半身裸になって体を拭いていると、悪戯っ子が、隣にいた子のズボンを下げ(1枚目の写真)、「お前、そのケツ何だ?」と大声で訊く。「盲腸の跡、見たことないのか?」。「なんでケツに盲腸があるんだよ?」。少年の体にある手術の縫合の跡は、ニコラに「腎臓摘出」の話を思い出させる。そのため、ニコラは、オドカンと一緒にジェットコースターに乗る夢を見る。ニコラは、弟に手を振る(弟を見ていてくれる男と一緒にいる)。ニコラがふと気がつくと、男は弟を連れて歩き出す。ニコラが心配になって見ていると、2人は救急車に近づく(2枚目の写真、矢印は弟)。ニコラは、弟が腎臓を摘出されると思い、必死に「止めろ!」と叫ぶ(3枚目の写真)。しかし、救急車は走り出す。原作では13章。盲腸の跡を見るシーンはなく、いきなりジェットコースターから始まる。映画の場合は、突然だと分かりにくいので、上手についないでいる。
  
  
  

しかし、映画でも原作でも、ジェットコースターのシーンの目的は、弟の誘拐ではない。重要なのはその後。映画では、ニコラが叫んだ後、しばらくジェットコースターだけが映され、次にニコラの顔が映ると、その顔は幸せに輝いている(1枚目の写真)。オドカンと一緒に、心からジェットコースターを楽しんでいる。このギャップも分かりにくい。そして、ハッと目が覚めると、パジャマが濡れている。慌ててベッドから降り、手で濡れた部分をぬぐって見てみる。粘着性があるし、臭いもないので、おねしょではない(2枚目の写真)。夢精だろうと想像はつくのだが、関連がよく分からない。ニコラは洗面に行ってパジャマの汚れた部分を布できれいにする。そして、偶然、外に目をやると、そこは一面の雪。ニコラは思わずドアを開け、外に出る。ニコラが降りしきる雪に見とれていると、後ろでバタンとドアが閉まる。パジャマ1枚で素足の状態なので、中に戻ろうとするが、オートロックで中に入れない。締め出されたニコラは、雪の中に足を踏み出していく(3枚目の写真、矢印)。原作の13章では、ジェットコースターに乗っているのは、オドカンではなくパトリック。ニコラは、弟が連れ去られた後、①弟を見なければよかった、②見なかったことにできるなら死んでもよかった、③こんなことが起きなかった別の世界に、パトリックと一緒に1分でも戻れたら、④その1分が永遠に続いたら、と順に願っていく。その別の世界にあるものはジェットコースターだけ。煎じ詰めれば、ジェットコースターが生み出す遠心力。遠心力によってパトリックの体はニコラに押し付けられる。パトリックの下腹がぴったり合わさり、2人の腿(もも)がくっつく。首に息がかかる。かなり性的なイメージだ。ここから14章に入り、ニコラは初めての夢精に恐れおののく。「お腹が切れて」「内臓が流れ出て」という鮮烈なイメージ。ニコラは、体が融けていく怪奇物語を思い出す。こうした恐怖は映画では描かれていない。15章。ニコラは雪の降る屋外に出て行く。映画と違い、中に戻ろうとは思わない。「今、この夜、外にいるのは彼ひとりだ。ひとり、濡れたパジャマを着て裸足で雪のなかを歩いている。だれもそれを知らない。二度とニコラを見かける人もないだろう」。静寂と孤独。
  
  
  

寒さで凍えるニコラの行く手にパトリックのシトロエンが見える。中に入れば寒さをしのげると思ったニコラは、真っ直ぐ車に向かい、幸い鍵のかかっていなかったドアを開けて(1枚目の写真、矢印)、車内に入る。置いてあった毛布を震える。ここからが、幻想。朝になり、車は雪に埋もれている。パトリックがやって来て、フロントガラスの雪を手で掻き落とすと、そこには冷たくなったニコラの死体が。場面は、ロッジの大広間に置かれた棺。中にはニコラが横たわり、それをパトリックとオドカンが見ている(2枚目の写真)。やがて、ニコラの棺は4人の見知らぬ男に担がれ、後ろには父母や教師、生徒たちがついて行く。途中で目を覚ましたニコラは、棺を叩くが出してもらえない。ここで、場面は現実に戻り、車の中でニコラが「助けて!」と叫び、懐中電灯を持ったパトリックがニコラを抱えて車から出す(3枚目の写真)。原作の15章。ニコラはパトリックの車に入る。運転席に入り、脚を折り曲げてハンドルの下に丸くなる。手をズボンの下に入れると、ネバネバは乾いている(映画と違い洗面で拭き取らない)。ここでニコラが思い出すのが「人魚姫」。ニコラは、人魚姫が鱗から替わった脚を見つける部分が大のお気に入りだったことが分かる。自分の手で、腿(もも)の内側をさわり、人魚姫になった気になるのだ。「腿の内側に手を挟むと暖かい。この感覚はなんともいえず甘美で…」。ニコラの独特の感性。雪の中に一人取り残されたニコラは、海から疎外され、人間にはなれない人魚姫と同じだと思う。自分は如何に孤独なのかと。そこでも、「自分の肌の温みと下腹の滑らかさのほか、なんの救いもなかった」という表現が見られる。官能的ですらある。ニコラは、自分が凍死すると思う。そして、自分の葬儀に思いをはせる(棺から逃げ出そうと叫ぶことはない)。ニコラが麻痺状態にあると、そこに光が現れ、ニコラに気付いたパトリックが救い出してくれる。
  
  
  

ニコラが気付くと、そこは、以前来たことのある、電話のある事務室だった。教師が電話でニコラの母と話している。熱が39度あり、直に医者が来ると告げ、逆に、ニコラの父からは依然として何の音沙汰もないとの返事に、「変ですね」と応じている。その後で、教師は、ニコラの行動のうわべだけ見て、「これは私の意見なのですが、夢遊病なのかもしれません」と素人判断を口にする。母は、その意見に反撥し、教師も「そうですね。私は医者じゃありませんし」と答える。そのくせ、電話が終わると、ニコラには、「夢遊病なんて、大丈夫だから」と、夢遊病扱い。ニコラは、それを受けて、「夢遊病の人が、その最中に何か悪いことをしたら、罪になるの?」と質問する(1枚目の写真)。原作(17章)では、冒頭の場面は、基本的に映画と同じ。ただ、ニコラは、教師の「夢遊病説」に大歓迎だ。そうなれば、昨夜のことを説明しなくて良くなるから。夢遊病中の責任については、次の18章に、ニコラの自問として詳しく書かれている。①夢遊病の発作の間に恐ろしいことをしでかしたら、責任になるのか?→きっと違う。②夢遊病の便利な点→仮病でも証拠がない→責められない。原作のニコラの方が、世慣れている。ニコラは、そのまま夕方になるまで事務室でずっと横になっている。部屋の隅に小さな猿の剥製が置いてある。ニコラはそれをじっと見ている(2枚目の写真)。すると、以前読んだ『怪奇小説集』のことが頭に浮かぶ。それは、『三つの願い』の話だった。父が、母に「猿の手」を見せる。「魔法の力があって、願いが3つ叶う」。母は、「欲しいわ… 百万フラン〔約2200万円〕」と言う。父は、「なぜ 10億にしなかった?」と批判する。その時、ドアをノックする音が。2人がドアを開けると、そこにいたのは申し訳なさそうな顔をした男。ソーセージ工場の見学中に、ニコラが機械に巻き込まれてバラバラになったと告げる。そして、その賠償金は百万フランの小切手。父は、猿の手に「息子を返して欲しい」と頼む。2つ目の願いだ。再びノックの音がし、2人がドアを開けると、そこにはバラバラになったニコラが(3枚目の写真)。確かに、ニコラは「返され」た。2人は慌ててドアを閉めるが、ドアの上の明り取りからニコラの手が入って来て、父の前まで「歩いて」くる。父が口にした3つ目の願いは、「彼を死なせてくれ!」だった。原作では、前述のように、『三つの願い』は4章という早い段階で語られる。内容は同じ。
  
  
  

重要なパート、その1。オドカンがニコラを見舞いにやってくる。夢遊病のことを話せといわれるが、ニコラは、昨夜はもっと深刻なことがあったと話す。ニコラは、秘密を誓わせ、臓器売買のことを話し出す(1枚目の写真)。「昨日の夜、奴らがいたんだ。眠れなくて窓の外を見たら、男たちがロッジの周りをうろついてた。僕は、外に出ると、音を立てないように後をつけた。池の近くに救急車が停まってたから、パトリックの車に隠れて様子を見てた。男たちは救急車に乗って去った」(2枚目の写真)。ニコラは、スキー学校は、腎臓と肝臓の宝庫だとも付け加える。オドカンは本気にするが、ニコラはなぜオドカンにこんな嘘を付いたのかが理解できない。原作では、順序が入れ替わり、1日後の20章の前半にこの話が入っている。この1日の違いは大きい。オドカンは、「夢遊病」の夜以降、一度もニコラに会っていなかった。1日目に来なかったので、見舞いに寄ってくれた少年に、ニコラは、話があるから来てくれと伝言を頼む。しかし、オドカンがようやく来てくれたのは2日目の夜になってからだった。ニコラは、オドカンをびっくりさせようと「ルネのポスター」(後述)を見せるが、オドカンは既に知っていた。オドカンを呼び寄せたのにビッグビュースは「空振り」だった。困ったニコラは臓器売買に話を替える。そうすると、オドカンは興味津々になる。ニコラは、オドカンを惹き付けるために嘘をつく。そして、「自分の新しい役を楽しんだ。完全な思いつきで、その場で話をでっち上げているのだったが、すでにそれは形をなし…」。原作のような「必然性」は、映画にはない。
  
  

翌日、ニコラは、事務室ではなく、スキー場の食堂で1人休むことになる。ニコラが事務室にいると、教師もロッジから離れられないからだ。パトリックは、誰もいない食堂の窓際にニコラを座らせると(1枚目の写真)、他の生徒にスキーを教えに行く。かなり時間が経ってから、2人の警官が入ってくる。1人は、ニコラに近づくと、顔をじっくり見る。「彼じゃない」。警官は、店員に、「これを貼ってもらえるとありがたい」と言いながら、ポスターを渡す(2枚目の写真)。そして、「この子、見たことは?」と尋ねる。「ええ、ヴォワロンさんの息子のルネよ」。「いなくなって、2日経つ。両親は、家出などありえないと言っている。おとなしい子で、成績もいいし、問題を起こしたこともない」。ニコラは警官に近づいていき、ロッジに貼りたいからと言って1枚もらう(3枚目の写真)。オドカンが呼びに来る。「お巡りなんかと何話してた?」と訊かれ、「すごい話。今夜、こっそり会わないと」と返事する。原作の19章。問題はこのルネのポスター。原作では、オドカンに見せようとポスターをもらったのに、効果がなかったから、臓器売買の話を持ち出している。映画では、ポスターをもらう前に、ニコラが(理由不明なまま)臓器売買の話を持ち出している。
  
  
  

そして、重要なパート、その2。ニコラはポスターをオドカンに見せ、「警察官は家出だと言ってる」〔嘘〕。「違うのか?」。「絶対にね。奴ら、ここで誰も捕まえられなかったから、この子を捕まえたんだ」(1枚目の写真)。「大変なことじゃないか。警察に言わないと」。「だめだよ」。「どうして」。ここから、ニコラの第2の、もっと深刻な嘘が始まる(2枚目の写真)。要点は、①ニコラの父は人工装具の販売員ではない。それは、隠れ蓑で、売買人を1人で追跡している。②目的は復讐(遊園地にいた息子〔ニコラの弟〕が腎臓を奪われた)。最後にニコラは、誰にも言わないよう、念を押す。原作では、20章の前半にあたる。オドカンが臓器売買の話を信じたので、ニコラは「自分の作り話にすっかりいい気分」になった。「臓器密売の悪人が…山荘のまわりをうろつき、好機が訪れなかったので、近くの村で、たまたま運悪くひとりで歩いていたルネを捕まえたのだ。話は符合した」。その後、オドカンが、重大事だから警察に知らせなくちゃと言った時には、「臓器売買の一味は警察にもいるんだ」と嘘を重ねる。上記の映画の要点の①②に加え、父がニコラに連絡してこない理由として、密売の一味との抗争の可能性すら指摘する。「ニコラは自分の話が強烈な印象を与えたのを見て大満足だった。しかし、一方で、エスカレートする今夜の作り話がどこに行き着くか不安でもあった」。軽いつもりでついた嘘が、取り返しのつかないほど膨れ上がっていく様子がよく分かる。
  
  

翌日、ニコラを乗せたバスがスキー場に着くと、駐車場の様子がおかしい。パトリックが訊きに行き、戻ってくる。そして、子供たちに向かって、「みんな、今日は、スキーはやめにしょう。悪いことが起きたんだ」(1枚目の写真)「3日前、近くのパノシエールの村で子供が行方不明になったが、今朝、死体が見つかった」と話す(2枚目の写真)。オドカンが、「殺された?」と訊く。「そうだ」。「やったのは?」。「分からん」。オドカンは、ニコラに、「臓器がなくなってるか調べないとな」と話しかける。この場面は原作(21章)とほぼ同じ。ロッジに戻った子供たちに、教師は授業を始める。しかし、動揺して授業を途中で打ち切る。女生徒が、「ここにいると危険ですか?」と尋ねる。「いいえ。危険じゃないわ。犠牲者が見つかったのは、ここから180キロ離れたドローム県のロマン(Romans-sur-Isère)の近くなの」。パトリックが後を続ける。「ということは、犯人はもうこの県にはいない。だから怖がらなくていいんだ」。オドカンは、「だけど、殺されたのはここだ。チビが1人で180キロも行けない」と指摘する(3枚目の写真)。教師は、そこで話を打ち切る。しかし、生徒たちの間ではひそひそ話が続く。「パパだったら、こんな残酷な奴は打ち首だって言うわ」。「殺される前に拷問されたかもな。切り刻まれた写真 見たんだ」。「レイプされたのかも」。「『レイプ』って何?」。教師が頭にきて強くいさめる。オドカンは、「そんなんじゃなくて、ヴァネッサがリュカにレイプの意味を訊いたから、リュカが…」と余分なことを言い出す。オドカンは、教師の激しい怒りを買い、直ちに寝室で謹慎、今夜のパーティへの参加禁止も申し渡される。後半は、原作の22章。オドカンが寝室行きを命じられるのは同じだが、生徒たちのひそひそ話はない。死体の発見場所までの距離は200キロ、場所は書かれていない。大切なのは、その後で、ニコラがどのように考えたかが書かれている。①殺されたのはここか、向こうか? ②遠くまで抵抗なしに連れて行かれたとは思えない。③生死にかかわらず、200キロはトランクの中。④暗闇に閉じ込められる恐怖。ニコラは、ここで、父の話を思い出す。麻酔のミスで、不治の聾唖、盲目、全身麻痺になった不幸な少年の話だ。
  
  
  

その夜、生徒たちが大広間でダンスをしていると、警察の車両がロッジの前に停まり、警官が2人降りて来る。玄関で何事か話した後、パトリックを加えた4人で2階の事務室に上がって行く(1枚目の写真)。ニコラは、踊りの輪から離れ、窓辺に立って警察車両を見ている。すると、しばらくして、寝室にいるはずのオドカンが外を走ってきて、窓辺のニコラに気付いて一瞬足を止め、視線が合う(2・3枚目の写真)。ニコラ:「どこに行くの?」。オドカンは「しーっ」と口に指を当て、そのまま走り去る。その時、階段を4人が降りて来る。警官は車両に戻って帰って行った。原作では23章。パーティなどはない。だから、警官の到来は生徒全員の関心の対象となる。ここで、クラスの出来損ないの生徒が、変質者に関する知識を披露し、一躍スターになる。ここで紹介される「怪物のような変質者」が、恐らく、ルネの殺人者の本質を示しているのであろう。この会話の間、ニコラは玄関のそばにいたが、オドカンが階段を駆け下りて来て、出口まで駆け抜ける際、ニコラと視線が合う。そして、外に出て行く。
  
  
  

重要なパート、その3。深夜になり、オドカンが下からニコラに呼びかける。「おい、ニコラ」。「何なの?」。「降りろ。話がある。ここじゃマズい。危険すぎる」。そう言うと、誰もいない小部屋に連れて行く。オドカンは意外なことを尋ねる。「お前のオヤジの車、何色?」。「灰色だけど、なぜ?」。「さっき お巡りが来た時、俺は寝室を抜け出して、事務室であいつらの話を聞いてたんだ(1枚目の写真)。犯人がルネに何をしたかとかな。お前には言わないでおく。それから、あいつら訊いたんだ。グレーのルノー25、見たかって。先生は忘れてたけど、俺は覚えてた。お巡りが帰る前に、俺は道路まで走って行って… 通報したんだ」(2枚目の写真)。「通報って、何を?」。「お前のオヤジの車がグレーのルノー25で、臓器売買の奴らに狙われてるってさ」。「(誰にも言わないって)約束したじゃないか」。「お前のオヤジの命が危ないんだぞ。だから、お巡りに言ったんだ」。ニコラは茫然とする。オドカン:「どのみち、済んじまったことだ」。ニコラは何も言わずに出て行くと、廊下に出たところで気絶する(3枚目の写真、矢印はニコラ)。この最重要の挿話は原作の25章を踏襲している。大きな違いはニコラの気絶。原作では気絶しない。茫然として言葉もないニコラに対し、オドカンは、髪をなで、頭を肩に引き寄せる。ニコラはされるままになっている。「髪をなでながらやさしく名前を呼んでくれているオドカンの胸に身を寄せ、その大きな白い身体の暖かさを感じていた。それはまるで大きな枕のように柔らかかった。その柔らかいところに、あの名のない硬いもの〔ペニス〕があり、それがお腹に押しつけられていた。ニコラは逆に、全身が氷のなかに閉じ込められたように縮こまって硬くなっていたが、股の間は柔らかく空っぽだった。何もなく、空ろだった」。他の生徒には凶暴で残酷なオドカンがなぜニコラに優しいのか、その理由がよく分かる。そして、その優しさが、ニコラに対し、取り返しのつかない残酷な行為をしてしまったその皮肉さも、原作の方が遥かによく伝わってくる。
  
  
  

翌朝、医者が帰った後、事務室で横になるニコラが映される(1枚目の写真、矢印は電話)。カメラは執拗に電話をクローズアップ。そして、遂に電話が鳴り出す。ニコラは耳を押さえて、呼び出し音が聞こえないようにする。鳴り止まない電話に、ニコラは起き上がって電話機の前まで行くが、そこで電話は切れる。一方、長く続く電話の音に気付いた教師が、廊下を早足で歩いて来ると、扉を開け、「電話に出なきゃ」と不快感を示す。だが、すぐにまた電話が鳴り出す。電話を取った教師(2枚目の写真)。恐らく、なぜ電話に出なかったと訊かれ、「寝ていました。済みません」と答える。次の聞こえない質問は、そこにニコラはいるのかね? 「横にいますけど」。2人だけで話したい。「分かりました。お待ちください」。教師は、ニコラを1階の食堂に行かせる。映画はあくまでニコラ目線まので、部屋から出された後のニコラ、及び、観客には、何が話されているのか全く分からない。ニコラは1階には行かず、そうかといって、昨夜のオドカンのように盗み聞きするわけでもなく、廊下の端に立って電話が終わるのを待っている。ガラスは表面がデコボコに加工されていて中の様子はクリヤーには分からないが、教師が激しく動揺する様子は分かる。スキー教室からパトリックが帰ってくる。階段を登った所にしゃがみ込んでいるニコラを見つけると、「こんなところで何してる?」と訊く(3枚目の写真)。「先生が中にいるから」。「追い出されたのか? 恋人と電話かな?」。パトリックは事務室に入り、しばらくすると出てくる。「君の家で問題が起きた。すぐに戻った方がいい」。「いつ?」。「明日の朝だ」。「警察が迎えにくるの?」。「いいや、僕が送って行く」。原作では27章。締め出されたニコラの心情が書かれている以外は、映画とほぼ同じ。違うのは、最後にニコラが、「家で起きたことって、重大なこと?」とパトリックに尋ね、「うん、重大だと思う。お母さんが話してくださるよ」と答え、「勇気を出すんだよ、ニコラ」と暖かく言う部分。
  
  
  

その夜も、ニコラは事務室で寝る。パトリックは、スーパーで買ってきたニコラの衣類を詰めたバッグを持って来て、いつでも出られるようにする。そして、朝7時に出るから早く寝た方がいいと、睡眠剤を渡す(1枚目の写真、矢印)(原作の28章)。ニコラは、なかなか眠くならないので、立って外の雪景色を眺めている。階段の下では、パトリックと教師が話している。「あなた、あの子に話すの?」。「僕にはできない」。「じゃあ、誰が話すの?」(2枚目の写真)。「さあ、母親だろ。彼女は予想してたかもな。2年前に父親が起こしたのは、重大ではないが、不愉快な事件だった」。後半の部分は、29章。パトリックが、①生徒たちが真相を知るのは時間の問題、②ニコラがここにいることを村人が知ったら、何を起こるか分からない、と話すことから、事態がかなり深刻なことが分かる。教師は、①ニコラのせいじゃないと庇い、②「なんて恐ろしいことを、ああ、神さま、なんて…」と発言する。パトリックは、これを受けて、「ルネの身に降りかかったことは、それは惨たらしいことだ。でも、この子の方がもっと可哀相だと思う。考えてもみてごらん。一生これを背負って歩くんだ。この子の人生は一体どうなるんだろう?」と心配する。映画でも、原作でも、何が起きたのか具体的に示されない。しかし、この部分の会話で、ニコラの父が、国中を震撼させるような衝撃的な行為をルネに対してしたことが分かる。その重要な会話が映画では完全に欠落している。その後の会話は映画と同じ。2年前の事件については、原作の24章に、①それまで暮らしてきた町を去ることが急に決まった。②引越しまで、ニコラは学校に行かず、母が家で面倒を見た、③父は長期出張中と教えられた、④母は何かを隠していた、という過去の思い出が書かれている。
  
  

次のシーンでは、ニコラは、パトリックのシトロエンに乗っている(1枚目の写真)。車は高速道路をひた走り、SAに寄る。2人が何か飲もうと建物に入ると、入口に置かれたTVには、ニコラの父が逮捕・連行されていく姿が映っている(2枚目の写真)。ニコラもそれを見てしまう(3枚目の写真)。パトリックは、ニコラをTVの見えない場所に連れて行く。ニコラは、ここまでずっと無表情のままだ。それが変わるのは、赤ん坊を優しくあやしている美しく若い女性に微笑みかけられた時。ニコラの顔にうっすらと微笑が浮かぶ。ニコラの目はその女性を追い、レジで待っている女性に近づいて行き 肩に触れる想像までしてしまう。ニコラの目は、迎えにきた若い父親と一緒に建物を出て行く女性をずっと追う。そして、最後にニコラの手から腕環が擦り切れて落ちる。このことは何かを強く訴えているハズなのだが、映画を観ていても何のために挿入されたのか分からない。原作では30章(家までの距離は430キロ)。SAに寄った2人。建物に入ってまず目に入ったのはTVではなく新聞立て。新聞の見出しは「怪物」。ここでも、逮捕される父のTV画像より、罪の内容がストレートに伝わる。そして、問題の女性のシーン。女性は、ニコラにとって、最悪の窮状から優しく、そして、永久に連れ去ってくれる「妖精」だった。ニコラが女性に近づくことを願ったのは、「妖精に話をしなければ」「助けてください、貴女のいらっしゃるところへ連れていってくださいと言おう」と思ったから。そうすれば、彼女は、「もう終わったのよ」と囁いてくれ、2人は「優しく、気高く、美しい彼女にふさわしい暮らしが待っているところ」「危険のけっして届かないところ」に行けるから。そして、妖精が去って行った時、ニコラの腕環は落ちる。「ニコラは、どんな願をかけたか思い出せなかった。そこにあるのは絶望のみ」。ニコラは、SAで見た女性に最後の救世を願うほど、絶望していた。映画からは、そのような悲しく切羽詰った情景は全く伝わって来ない。
  
  
  

パトリックは、ニコラのアパートの駐車場に車を止めると、右手でバッグを持ち、左手をニコラの肩に置き、建物へと向かう(1枚目の写真)。長く暗い廊下の突き当たりにニコラの部屋がある。2人は黙ったまま廊下を歩き、ニコラがドアベルに手を伸ばしたところで(2枚目の写真)、ニコラの全シーンは終わる。原作では最終章(31章)。ラストは、「ニコラは知っていた。ドアが開いてしまうことを。いよいよ彼の現実が始まることを。そして、その現実にはいかなる救いもないことを」という厳しい文章。
  
  

映画のラストは、オドカンが教師に事務室に呼ばれるシーン。冒頭の父兄説明会と、ここだけが、ニコラの視点から描かれていない。オドカンは TVを見せられる(1枚目の写真、矢印はTVに映るニコラの父)。そして、自分の通報が、ニコラに何をもたらしたかを知る(2枚目の写真)。それは、決して、後味のいいものではなかった。原作では、25章と27章の間に唐突に挿入された26章が、ある意味では、この部分に該当する。26章は、20年後の12月、パリのトロカデロでの話。オドカンは、ホームレスの大男として登場する。そこに偶然ニコラが通りかかる。ニコラについての詳しい記述はないが、ごく当たり前の姿をした勤め人らしい。オドカンはニコラを認識するとナイフをつかんで突進する。ニコラは全速で逃げる。ニコラは、「救いのない現実」を何とか乗り切ったが、オドカンは、「ニコラの嘘を信じ、結果的にニコラを裏切った」ことで、人生が破壊されてしまう。
  
  

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